9.18.2012

多重的なパレット

都市に住んでいると、宇宙に浮かぶ星々をほとんど見ることはできない。
それでも7月7日が特別な日として記憶されているのは、きっと天の川のせいなのだろう。物理学者にとって何らかの秩序によってそこに整列し続ける未知の鉱物の集合体は、文学者にとっては宇宙(そら)というカンバスに描き出した意味のあるストーリーだ。ほかの人たちがそう感じなかったとしても・・。

(この記事は夏に書いていたけれど、もうすぐ十五夜だね)


このように知覚というのは不思議なもので、今、目に見えている現実が、各々にとって“ひとつの現実ではない”ことについて考えさせられる。


知覚ということでいつも思うのは、「シンプル」とは何か?ということだ。


一般に「シンプル」とは、スッキリしていて、なにもない、要素が少ないことだとされる。
けど、そうだろうか?

例えば、刺身を醤油につけて食べる。なんとシンプルなことだろう。
だけどそこには、刺身の香り、添えてある花の香り、山葵の香り、そして醤油の香りがある。
ひとつ、醤油を取り上げよう。醤油には何と、バラやウィスキーやコーヒーなどの香りが300種類以上複合している(!)という。驚くことにそれが“ひとつ”の醤油の香りとして知覚される。単に「いい香りだ」と思う以上の要素があるようだ。
結構、香りの世界は複雑らしい。

けれども僕らは刺身を醤油につけて食うことを“シンプル”だと知覚するのはなぜだろう?
それは、醤油なり、山葵なり、刺身なりが、それぞれひとつずつの“個性”として統合されているからだろう。つまり醤油は、、、「これとこれと、これの香りの合わさったやつ」と無意識に知覚しているはず。そしてそれらの組み合わせが更に、“刺身を食うという総合体験”として統合され、バラバラの要素が矛盾なく、自然に知覚される。刺身を食うときに、いちいち考えたりしないで済むのは、無意識の統合力のおかげ。
もしこの無意識の知覚の統合力がなければ、刺身を食うのにさまざまな要素に次から次へと出会いすぎて、疲れ切ってしまうに違いない。

といって、僕らは「合わさった味」とか、「合わさった香り」を直接感じているわけではない。
よく、「味にまとまりがある」とか言うけれど、これは正に「一度はそれぞれの味をバラバラに感じてますけど、無意識にそれらを統合するとまた別のいい感じの味になりましたわ」ということを指しているのではないだろうか。そのプロセスは意識しないけれども。


例えば、今度は絵の話だけれども、「光の魔術師」と言われるフェルメールの絵画には、光線の要素がまるでプリズムで分解したみたいに描かれているという。彼の絵に近寄ってみると、確かに光の粒がまるで映画館のスクリーンに近づいて見たときのように描かれている。
(google artで拡大してみるとわかりやすいよ!:http://g.co/artproject/h2g6
描く作業としては、カンバスに近づいて、ひとつひとつの点を置いている。ただ、それを引きでみるとシンプルに統合されているのだ。

観る距離によって、それは単なる点として知覚されたり、またはある情景をあらわす光の状態として別の点と合わさって知覚される。



不思議なのは、刺身の香りも、フェルメールの絵画も、一度バラバラにその構成要素をじっくりと味わったあとで、もう一度全体を見ると、さっきより味わい深く感じるのだ。
まるで音楽を聴くのに、ドラムの音、ベースの音、ギターの音、ボーカルの音、と順々に聞いていき、最後にもう一度全体を聞くと、深く感動するのと似ている。

それぞれの構成要素のどれを一番強くありありと感じるかが、たぶん人それぞれの個性だろうし、その時々だろうから、ひとつの“シンプル”なものが、さまざまな表情を見せるのだろう。
だからシンプルとは、要素が少ないことではなく、さまざまな要素がうまい具合に統合されている状態のことなのだろう。


そう考えると、まるでわれわれの世界の見方は、幾重にも重なる透明なパレットを手に持って、そのパレットに並べられれた透明な色とりどりの絵の具の色を、その時々で角度を変えてみたり、近づいたり離れたりしてみて、いろいろな風に実験しているかのようだ。
そして本当に不思議なことに、それらはバラバラの体験でなく、ひとつの体験として知覚することもできるのだ。そう、夜空の星々が、点と点が線でつながるかのような感動を伴って。



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