8.05.2008

バカになる。

バカであれ、冒険者であれ。
自分がバカだな、と感じる時、
きっと素晴らしいことをしているに違いない。
計算ばかりしていては、旅は始まらない。
勇気を持って、冒険に出かけよう。






8.04.2008

in joy

“死”に関するテーマに、ここのところいくつか触れてきた。
さまざまな人からそれについて聞いたけど、

ポイントは、

“人はいずれ死ぬ”

“失うことの恐怖と死とは関係している”

ということだった。




“人はいずれ死ぬ”
遅かれ早かれその日はやってくる。
ならば何を焦る必要があるのだろう。
そして、自分の好きなことを曲げてまで生きる理由が、
本当に大切なものなのだろうか、という疑問が湧いてくる。
これは人生を見つめなおす、大きなクエスションだ。
人生でいくつか、人間はこのクエスションにぶつかる時が来る。

たとえば、身近な人間の死に面した時。
他には、誰か自分らしく生きている人を目の当たりにした時。
それから、自分の我慢の限界の時。
究極は、自分自身の死を悟った時。

これらはいわゆる“転機”を与えてくれる。
大きな疑問符が、鏡の中の自分に対して投げかけられる。
「本当にこれでいいのか」
「変わるべきは、自分なのかも」と。

人間は永遠を生きている生き物だが、
肉体的には限りある自分と向き合っているに過ぎない。
“死”はそのことを思い出させてくれる。



“失うことの恐怖と死とは関係している”
なにかを変えようとした時、自然な反応として、
なにかを失うのではないかと、そう考える。
人は獲得したい生き物だから、損をしたくは無い。
けれど、“死”はすべてを帳消しにする。
いったん、リセット。獲得したものもパー。
だとしたら何を必死で獲得するのか。
または、言い換えれば、何を必死で失うまいとするのか。
得る、とか、失う、とか以上に大切なものが、
そこにはあるんじゃないだろうか。
体験。といってもいいかもしれない。
ある意味でギミック的ではあるけど、
死を獲得する時、人は全てを失う。

それが感覚的にわかるようになると、
人はそれぞれ、自分らしい道を歩もうとしだす。


“死”についてばかり書いたけど、
決して暗いわけではなく、むしろその逆で、
自分らしい道は、in joyなのだ。
(これについては、また気が向けば)


とにかく暑苦しい夜に、Larry Carltonでもいかが?