人材育成という言葉があって、
人材は育成できるもの
という幻想がある。
そのある程度は真実だし、
ある程度はやはり幻だ。
その幻想はこう言う。
あなたには欠けているところがある。それを埋めてあげましょう。だって私にはそれが分かるのですから。
まるで人間に、“完璧な形”があるかのような、そんなアプリオリな前提に立っているのだ。
言い換えれば、人材育成と言う言葉は、
ヒマワリの種に水をやってバラに育てます
という意味で使われる事が多い。
まぁ、少なくともかなり近い意味で。
「必要な人材像」に終始すると、そんな発想になりやすい。
大切なのは、実際の人間と、必要な人材像の両方からスタートし、もっとも高い可能性を探ることだろう。
ヒマワリをバラに育成することはできない。
欠点を埋めるのではなく、欠点の周りにあるものに着目するのはどうだろうか。
そうしたとき、(飛躍するようだが)欠点は大きなブラックホールまたは引力になり得るのではないだろうか。
つまり、無いという認識が、育成の妨げとなる。
無いという認識から、埋めるという行為が想起され、結果無駄になる。
我々はみな空白恐怖症で、それはスキルマップのヴォイドを許さない。
それは特定のスキルかもしれない、それは憧れかもしれない。
本来の形に、幻影を重ねて、あれがない、と必死で埋め始める。
しかし本来の形以外には、結局なりようがない。
しかも、ほとんどの仕事はコミュニケーションの中で成り立つ。
そのため、特定の欠けているスキルを伸ばそうとする行為は独り相撲となる場合が多い。
有る/無いという概念は、ある視点を表しているに過ぎない。
何かが無いと思ったとき、対象とのコミュニケーションを変化させることはできるだろうか。
例えば、スキルの有る/無しは、成果と直接の関係はない。
状況の有る/無しは成果と直接の関係はない。
であるならば何にこだわるだろう?
常に何か有り、何か無い中で、
成果を上げるには、
無い、ということが実はただの有るの反対ではなく、また別の有るを生み出す可能性であることを知る必要がある。
それは直接の事象ではなく、それらを生み出す環境のようなものだ。
器が役に立つのは、それが空っぽだからである。 老子
我々は、何かが無いということに対して、それが却って力を発揮するようなプランを必要としている。
それが組織でも、個人でも。
常に有無の概念は互いにコミュニケーションしている。
それらを俯瞰することが必要だ。
だから育成とは、
テクニックを育てるのではなく、
テクニックを使う人を育てることをいうのだ。
無い、を埋めることが育成ではない。
それを利用することである。