“死”に関するテーマに、ここのところいくつか触れてきた。
さまざまな人からそれについて聞いたけど、
ポイントは、
“人はいずれ死ぬ”
“失うことの恐怖と死とは関係している”
ということだった。
“人はいずれ死ぬ”
遅かれ早かれその日はやってくる。
ならば何を焦る必要があるのだろう。
そして、自分の好きなことを曲げてまで生きる理由が、
本当に大切なものなのだろうか、という疑問が湧いてくる。
これは人生を見つめなおす、大きなクエスションだ。
人生でいくつか、人間はこのクエスションにぶつかる時が来る。
たとえば、身近な人間の死に面した時。
他には、誰か自分らしく生きている人を目の当たりにした時。
それから、自分の我慢の限界の時。
究極は、自分自身の死を悟った時。
これらはいわゆる“転機”を与えてくれる。
大きな疑問符が、鏡の中の自分に対して投げかけられる。
「本当にこれでいいのか」
「変わるべきは、自分なのかも」と。
人間は永遠を生きている生き物だが、
肉体的には限りある自分と向き合っているに過ぎない。
“死”はそのことを思い出させてくれる。
“失うことの恐怖と死とは関係している”
なにかを変えようとした時、自然な反応として、
なにかを失うのではないかと、そう考える。
人は獲得したい生き物だから、損をしたくは無い。
けれど、“死”はすべてを帳消しにする。
いったん、リセット。獲得したものもパー。
だとしたら何を必死で獲得するのか。
または、言い換えれば、何を必死で失うまいとするのか。
得る、とか、失う、とか以上に大切なものが、
そこにはあるんじゃないだろうか。
体験。といってもいいかもしれない。
ある意味でギミック的ではあるけど、
死を獲得する時、人は全てを失う。
それが感覚的にわかるようになると、
人はそれぞれ、自分らしい道を歩もうとしだす。
“死”についてばかり書いたけど、
決して暗いわけではなく、むしろその逆で、
自分らしい道は、in joyなのだ。
(これについては、また気が向けば)
とにかく暑苦しい夜に、Larry Carltonでもいかが?
3 comments:
俺の場合、間違いなくその転機は、2005年8月の夏です!
なんかあったっけ?
初めて海を渡って歩いた場所で、強烈な体験をしたからですよ!
あれがなかったら、おそらく今、全然違うsatosyです。
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