12.29.2011

組織と軍隊と紅茶と旧友

旧友、という言葉を使うには、僕はまだ若すぎる気がする。
ただ彼と会うのは本当にポッカリ期間が空いていた。大学時代の友人に逢った。

紅茶屋でアールグレイとアッサムのポットを頼み、近況を報じ合った。


彼は今、自衛隊にいた。ハイチに海外派遣されていたことや、歳を取ってからその仕事をはじめることのキツさ、日常の9割は“準備”に費やされることなどを語っていた。
普段、軍隊(※海外では自衛隊はJapanese Armyと呼ばれるので)とは縁遠い僕にとって、彼の話は刺激的で面白かった。

特に軍隊という“組織”が僕の興味を引いた。

ディティールは多少違っているかもしれないが、自衛隊は17もの階級(!)が存在する。会社組織で言えば「平社員、係長、課長、部長、常務、専務、社長」といった7階級で事は足りるだろう。一般的に、組織の階層が多くなればなるほど、意志の統一が難しく、マネジメントし辛いはずだ。なぜそんなに階層が多いのか?という僕の問いに対し、彼はこう答えた。
「最小で3~4人の組織に分割することができる。その場合、命令指揮系統が混乱しないよう、多くの階級がある」
つまり、どんなに小さな組織に分割していっても、誰がボスかが明確なのである。
指揮命令系統がスッキリしているし、上位下達という考えもハッキリしている。

また彼曰く、
「下の者のパフォーマンスが悪ければ、直属の上司の“指導不足”であり、それはまたその上の上司も、“指導不足”となる。一番下っ端にはベストを尽くすことが求められ、結果責任は上司にある」
と。実に責任の所在が明快な組織形態である。


考えてみれば、軍隊という組織形態は、人類の歴史並に古く歴史のある組織じゃないだろうか。また、組織の目的も明らかで、あるミッション、タスクを実行するということを長年行っている。歴史が長いからこそ、“いかに組織するか”ということについてもさまざまなノウハウが蓄積されているだろう。


また彼の口から出てくる軍隊組織の経験談は、まさに活きた言葉だった。
「誰が上に立つかによって明らかに仕事の効率が違う」
箸の上げ下げまで細かく指導されるより、目的を告げられ、ある程度の裁量が残されている方が高いパフォーマンスを発揮できるのだそうだ。ダニエル・ピンクのモチベーション3.0だね。
高いパフォーマンスを発揮する指揮官は、重たい荷物を持つにしても、
「自分が持ちやすい、楽と感じる持ち方で持て」などと指導するそうだ。


りんごのタルトタタンをつまみながら、僕は考えた。

軍隊の組織は非常に洗練されているが、一方で現代のほとんどの組織の役割とその責任は、軍隊ほど厳密に定義できないだろう。
だれに、何の責任が、どの程度あるのか。いったいだれが主体的に、どういった目標を達成するのか。一見はっきりとした目標や役割や責任を抱えているようで、実は定義はあいまいで、その場で都度だれかが決めていき、コンセンサスがあとから形成されていく。

それは多くの組織が変化にさらされていることが原因だろう。変化する世の中において、じつは大きな組織ほど、変化に柔軟に対応することが難しくなる。
組織とはそれ自体がタスク処理のノウハウだ。大きな組織ほど、過去のタスクの最適化に成功してきた可能性が高い。だからこそ、あらたな環境の変化に適応することは、特に大きな組織であるほど難しいのかもしれない。過去のノウハウの最適化である組織は、昨日と同じことを、昨日より効率的に処理することが得意なのだ。

新しいことや変化への順応は個人にとって得意分野で、その後の効率化のために組織ができるという順序だとすれば、新しいことを組織でやろうとするのは順序が逆かもしれないな、、などと考えながら、彼の話を聞いていた。
つまり、新しいことに取り組む組織は存在しえず、新しいことに取り組む個人を少し遅れてフォローしバックアップする組織というのが現実的なラインだろうな。ソニーが組織で失敗し、アップルがジョブズ個人と彼を組織でフォローアップすることで成功したように。

そうすると、個人が始めていく新しいことをバックアップする組織の一面と、軍隊のように厳密に定義された責任と命令系統を持ち合わせた組織の一面とが両立できるのが、良い組織なのだろうか。
いずれにせよ組織は“手段”にすぎないので、つねに明確なミッションと、命令を必要としているのだろう。現代の多くの組織では目標は見えず成果は何によって測られるか分からず、大小の混乱を生み出している。
ゴールが不明確な時代においては尚更に。


紅茶を飲み終わり、コートを着込み、真冬の街中で旧友と別れた。
僕らはそのまま自らの所属する組織へと戻った。




11.05.2011

人生の目的

雨がしとしと降っている。
白い雲がランプシェードのように空を柔らかく覆い、光を拡散しているせいで、街のビルには陰がなく、空気はしっとりしている。


今日の空のように、輪郭がぼんやりとしながら、ハッキリとした明るさを持って、僕の心にある疑問が浮かんだ。

人生の目的とはなんだろう。
地球上の70億人に生まれつき目的が備わっているとは思えない。けれど、それぞれが自らの意思でそれぞれの目的を持っても不思議ではない。
人々は毎日動いている。文字通り時間や空間の中で。足を動かさずとも時は流れて行く。それぞれの人はどこへ"向かい"ながら生きているのだろうか。

頭の中で、数多の人々がうごめく映像が浮かぶ。僕にとって名前のない、しかし、それぞれの行き先を持っているであろう人々。

はっきりとした名前のあるない、意識するしないに関わらず、人は自らに何らかの役割を与えている。
社会の中での役割、仕事上での役割、友人たちとの付き合いの中での役割、家族を構成するものとしての役割。光があるところに影があるように、存在するということと、役割とは切り離せない。「あなたとわたし」は、お互いに役割で結びついている。

そして役割で結びついた関係はまるで、地上に落とされた影の形のようだ。それは、刻々と変化する太陽の位置と、建物同士の距離が関係しあって群像を形づくる。
だから人は、生きる意味のようなものを、関係性の中で見つけ出す。互いに影響し合い、ある群像を描くことに役立っている。

何かの役に立ち、群像の一部であると感じるとき、人は「幸せ」を感じるのだろう。そして何の役に立ちたいか、ということがすなわち人生の目的となる。意識され得るかどうかに関わらず。
よく、何になりたいとか、なにを得たいかとか言うけれど、それは本筋ではない。所詮人は関係性の中でしか自分を見出すことが出来ないのだから、何になろうとも何を手に入れようとも、何かの"役に立たない限りは"、残るのは虚しさばかりだ。


その意味で、人生の目的は?と尋ねられて、何何になること、と答えているのは、まだそれについて落ち着いて考える時間が足りないのかもしれない。

また同じように、何の役に立ちたいか、という質問に答えられない私も、まだ、考える時間が足りていないのだろう。


雨がしとしと降っている。
ただもうしばらく降り続けることを、期待するばかりだ。


10.17.2011

ほしいものがほしいわ

確か、モノが溢れた日本のバブル期に、西武百貨店のために糸井重里さんが書いたコピーだったと記憶してる。

ほしいものがほしいわ


これって、今の時代に、もっと当てはまってるような気がする。特に最近は、ITと呼ばれる分野にそれを強く感じる。

僕自身、前は「ガジェット好き」だった。いわゆる電子手帳的なものが大好きだった。それらがなにを実現してくれるのか、という未来にわくわくしたものだ、

だがモバイル通信と、インターネットがすべてのルールを変えた。

ネットワークが主導権を握るようになってから、各デバイスは単なる手段に成り下がった。それも当然だ。ネットワークという上位概念がワーク(機能)し始めたからだ。
それまでは、各デバイスが各ワークの最重要ポイントだった。いかに賢いパーソナル・データ・アシスタントを使うかが勝負だったのだ。

今や各デバイスは、一通りの能力を備えている。文字が読み書きでき、カレンダーの概念があり、動画、画像、音楽の再生と編集が可能だ。無論インターネットに繋がり、成果物をやり取りできる。

もう本当に、あとはなにを書いて、なにを作るかが大切になってきた。いや、ずっと大切だったけれど。

ネットワークという上位概念がすべてを変えた。
まぁ、それを、インタラクティブと言ったり、Web2.0と呼んだり、シームレスだ、フラットだユビキタスだと言葉を変えてみて、はたまたプラットフォームだクラウドだとか呼び始めたり、なんでも構わないが、いよいよ我々は

ほしいものがほしいわ


という時代に到達しようとしている。
ここしばらく、エンジニアの時代だったけれど、それももうそろそろ終わりそうだと予感している。


技術的なことば遊びを止めて、
なにがほしいか、からスタートしなければ、
もうこれ以上のモノもサービスも
「ほしくない」時代なのだ。

10.05.2011

Please

並木と中央通りの間、
自転車屋のブロックの角の二階の店。
(広島市中区三川町3-1)

お茶の時間は濃厚ガトーショコラが売り。かなり濃厚。個人的にはその上からさらに熱いチョコレートソースをかけて欲しかった。

さて、ここの限定ハンバーグが美味かった。ランチで出すレベルではないのでは?

五日かけてスネ肉煮込んで、デミグラスソースに溶かし込んで、、手のかかったフレンチで、、。

店内はゆったり。大きなソファがいくつかある。並木にしては珍しいつくりかも。夜もかなり遅くまでやってる。


今後、夜のワインが充実すればなかなか貴重な店となりそう。
今時珍しい、“手のかかった” cafe barなのだ。


9.08.2011

準備

NASA 好機をつかむ組織
という本があって、それを読んで以来、組織にはつねに何らかの“準備”が必要だと考えるようになった。

組織の外界はつねに変化する。
ついつい、内向きになりがちだが、組織の価値を決定するのは、組織の外がわの人たちだ。

新しいことが起こっても、十分に対処できるだろうか。急な状況変化にたじろがず、テンパらず、しっかりとその手に好機をつかめるだろうか。










そのために、組織全員の目を、内ではなく、外へ、今ではなく、先に向けることができるだろうか。

昨日の基準を、今日の基準としてはならない。明日の基準こそ、今日の基準としなければならない。


そのための準備をしようと思う。少しずつではあるけれど。

8.02.2011

放射能パニック

今、日本では放射能パニックが起きている。
ずっとそこにあったものなのに、急遽脚光を浴びて皆の前に華々しく現れ、そこら中の頭の中を掻き乱しているようだ。

不安や経済、アイデンティティや歴史。

人間が火を使う歴史と似ているのか、それとも今回は根本的に違うものなのか。

多くの人はきっと、原発というものに対して支持も不支持も抱いていないだろう。
本当のところは。
原発事故反対というスタンスしか取りようがないとも言える。

その汚染物質はどこまで広がるのか。どんな影響があり、いつ無害になるのか。それに対する手だてはあるのか。

誰もシンプルな答えを持っていない。

よく分からない、というのが真実で、専門家に言わせても、せいぜい「まだよく分からない(こういうことまでは分かっている)」というところが誠実なラインだろう。それ以上は大抵の場合、必要とされなかったのだから。
ただしパニックの間は、大量の仮説や偏ったデータが、確固たる事実であるかのように伝えられる。


煽るメディアに煽られるひとびと
隠す体制に、糾弾するひとびと
ニワトリとタマゴみたいだ
どちらが原因でも成り立つ関係。


パニックはそれぞれの立場の間に働く引力で二重螺旋を描きながら、不安を拡散していく。原動力は事故への怒りだろう。
このパニックの果てに起こることはなんだろう。他のパニックと同様、いずれは過去へと消え去っていくだけだろうか。
それとも、文化的なトラウマとなり、ずっと影響を与え続ける、大きな爪痕を残すことになるだろうか。


いずれにせよ、世界で増え続ける人口に対して、われわれはまだエネルギー問題を解決していない。いま起きている放射能に汚染された/されてない問題よりはるかに深刻だ。化石燃料にせよ、原子力にせよ、太陽光にせよ、地球のエネルギーは足りていない。水も食料も同様だ。
これは日本も含めて多くの人々の生存に直結する、差し迫った問題だ。


そんな中、いま日本で起きている近視眼的な放射能パニックは、もっと大きな今後の問題を見るひとつのきっかけとなるだろうか。
子供に食べさせるものが汚染されているか心配であるなら、子供が大人になったときにいまと同じだけのエネルギーが供給されているかも同時に心配なはずだ。


放射能パニックはまるでバブルのようだ。狂気的で、大して意味のないものが重要に思えたりする。一方で、新しい価値観が生まれて、世の中を大きく変えたりする。


このパニックが掻き乱し、人々の記憶に刻み込んだ不安の数々が、われわれの考える力を刺激し続けていくだろう。
放射能パニックはいま、日本に新しい視点をもたらしている最中なのだ。



7.04.2011

口に出せない言葉

ある程度親しい関係の人とは、
よく言い合うこと。

けれど公には口に出さない言葉。

飽きた


やる気がないと思われては面倒だからだ。
けれどこれは自然な感情で、仕方がない。
人間誰氏も、なにかに熱中しては飽きるものだ。

いや、世の中には、ひとつのことにずっと熱中できる人がいるんだろうか。
それとも、熱中せず、“そこそこの気力”を保っていけるんだろうか。

不思議だ。

仕事とは歩き続けること、という側面がある。
一定の品質を一定の速度で、継続的に…

それはそれで素晴らしいし、僕がサービスを受ける立場だったら、そうあって欲しい。例えば鉄道とか、飲食とか。。

僕は供給する側には向いてないようだ。


これらはあまり口に出さない言葉だ。






5.25.2011

新しいものをもたらす

ある認識のカタマリに、
“別の”認識を持ち込む作業。

世界が変わるというのは、
世界が変わって見える、
そう認識されるから。


そのため、価値観に働きかけることが必須。
その人の中での、優先順位、
つまり「自分との関わり度」の認識を変える。
これが、世界に対する認識を変えること。

つまり、世界を変えること。








5.16.2011

無用の用 /育成について

人材育成という言葉があって、
人材は育成できるもの

という幻想がある。

そのある程度は真実だし、
ある程度はやはり幻だ。


その幻想はこう言う。
あなたには欠けているところがある。それを埋めてあげましょう。だって私にはそれが分かるのですから。


まるで人間に、“完璧な形”があるかのような、そんなアプリオリな前提に立っているのだ。


言い換えれば、人材育成と言う言葉は、
ヒマワリの種に水をやってバラに育てます

という意味で使われる事が多い。
まぁ、少なくともかなり近い意味で。


「必要な人材像」に終始すると、そんな発想になりやすい。

大切なのは、実際の人間と、必要な人材像の両方からスタートし、もっとも高い可能性を探ることだろう。

ヒマワリをバラに育成することはできない。

欠点を埋めるのではなく、欠点の周りにあるものに着目するのはどうだろうか。

そうしたとき、(飛躍するようだが)欠点は大きなブラックホールまたは引力になり得るのではないだろうか。


つまり、無いという認識が、育成の妨げとなる。

無いという認識から、埋めるという行為が想起され、結果無駄になる。
我々はみな空白恐怖症で、それはスキルマップのヴォイドを許さない。


それは特定のスキルかもしれない、それは憧れかもしれない。

本来の形に、幻影を重ねて、あれがない、と必死で埋め始める。
しかし本来の形以外には、結局なりようがない。


しかも、ほとんどの仕事はコミュニケーションの中で成り立つ。
そのため、特定の欠けているスキルを伸ばそうとする行為は独り相撲となる場合が多い。



有る/無いという概念は、ある視点を表しているに過ぎない。

何かが無いと思ったとき、対象とのコミュニケーションを変化させることはできるだろうか。


例えば、スキルの有る/無しは、成果と直接の関係はない。
状況の有る/無しは成果と直接の関係はない。
であるならば何にこだわるだろう?

常に何か有り、何か無い中で、
成果を上げるには、
無い、ということが実はただの有るの反対ではなく、また別の有るを生み出す可能性であることを知る必要がある。
それは直接の事象ではなく、それらを生み出す環境のようなものだ。

器が役に立つのは、それが空っぽだからである。 老子


我々は、何かが無いということに対して、それが却って力を発揮するようなプランを必要としている。

それが組織でも、個人でも。

常に有無の概念は互いにコミュニケーションしている。
それらを俯瞰することが必要だ。


だから育成とは、
テクニックを育てるのではなく、
テクニックを使う人を育てることをいうのだ。

無い、を埋めることが育成ではない。
それを利用することである。




5.05.2011

ビンラディン殺害

ウサマ・ビンラディンがアメリカ政府によって殺害されたというNewsが駆け巡っている。

ひとりの男がいかにしてテロ・スターになり上がり、
恐ろしいほどの多数の殺人者集団を鼓舞し、
そして実行したかの物語がある。

そして、さらに恐ろしいほどの多数の集団が、
ひとりの男に向かって銃を突きつけ、衛星を使い、
情報網を駆使して、殺害に至るまでの物語がある。


人間の歴史は、殺したり、殺されたり。
だが、今の時代に、ひとりの男の死を
これほどまでに喜ぶ風潮はやや違和感を覚える。
国会議事堂の前で「USA」コール。自慢げに記者会見する大統領。
それはまるで飛行機がビルに突っ込んだ時に放映された、
「喜び踊るアラブ民衆の姿」とダブるからだ。
(けれどあれはヤラセ映像だったらしいので、メディアはあまり信用ならないけど)

目立つ部分、際立った部分を報道したがる世界中のメディア。
つまりそれは完璧な悪人か、完璧なヒーローかを作り上げたがる。
そのための材料が足りなければ「編集」すればよい。

ただ、今はもうすでに誰かを殺すことによってヒーローとなるのは、
違うのではないかと思う。
今のメディアの関心は「いかに殺されたか」に移っているけれど、
テロリストを殺すことによって賞賛されるのではなく、
テロリストを生み出さない支援によってより賞賛されるべきだろう。

メディアに期待しすぎず、やや距離を置くことが必要だ。
きっと報道されないところで、
あまり目立たない誰かによって、日々世界は良くなっているのだろう。
ひとりの男が殺害されたNewsより、価値のある貢献がなされていることだろう。



2.19.2011

どこへ向かう

なにかすべき時にするのが戦術で
なにもない時にするのが戦略

(あるチェスプレーヤーの言葉)



仕事をするとき、ひとりではない。
チームで仕事をすると、自分以外の誰かと向き合う。ベクトルも、スピードも違う。


仕事とは変化を起こすことで、
変化には時間が必要だ。




誰かを待つ時間に、何をするか。
戦略という大きな視点が必要だ。


そして戦略には、ゴールが必要だ。


少しゆっくりしたとき、どこに向かうかを決めるのは、自分と向き合うということ。


いまいち興味が持てなければ、大きなゴールが必要ということ。


1.29.2011

東京と大阪

今、広島にかえる新幹線の中。


東京出張でいくつかビジネスした。また、事業改善のプレゼン大会を視察した。

会場で、幾人かと貴重な言葉を交わした。意見を交換し、次へと繋がる成果を得た。

この大会は一年ぶりで、ちょうど寒い冬のことだった。
あれから一年間、自分なりに改善を積み重ねて、わかったことがある。

それは、「自分の改善」などあり得ないということだ。
誰かが、自分の改善を使ってくれて、初めて意味がある。

聞かれない歌が虚しいように、使われない改善には意味がない。

だが、どうやったら改善のアイデアを使ってもらえるというのだろう?

一年かかって分かったのは、より全社を俯瞰する動きが必要ということだ。
全国の点と点を、線で結ぶ仕事。

そんなことを考えながら、その晩、すこし酒を呑んだ。










一夜開けて大阪。



友人との再会。

酒が入ると涙もろくなっていけない。



さまざまな話をし、すこし昔を思い出した。

今より、大きな仕事をしよう。
そんな気になった。


1.16.2011

組織、チーム

年末年始は人の異動、また移動が多い。
いろんな集まりの機会がある。


最近もあるチームのリーダーの異動で僕を含めたメンバーが集まった。
すごく慕われている人だったので、盛大な会になった。


一方で僕は最近、リーダーの立場になることが多い。


ふと、組織(チーム)とはなんだろう?
と考えてみる。




それは繋がり、




なにか同じことを考え、




共に楽しみ、






なにかの成果を上げていくこと。


どんなチームにも、
気がつけばチームの誰もが共有している「価値観」があり、
それぞれに異なる「個性」が影響し合ってる。



僕はどんな「価値観」のチームをつくりたいだろうか?

僕の「個性」はチームにどんな影響を与えているだろうか?



さまざまなチームを経験して僕が学んだのは、チームはリーダーの鏡のようなもの。

そしてチームのリーダーとは、役職ではない。


では誰がリーダーとなるか?


チームのことを一番深く考えた人が、自然とリーダーとなるのではないだろうか。


その人には優しさがあり、
寛容であり、
方向を定め、前に進む。


いつからか、そういった理想を持つようになった。
僕はよいリーダーに恵まれてきたのかもしれない。




1.02.2011

夜の莓、昼の莓

2010は振り返る暇もないほどに、瞬く間にとおりすぎていった。

年末は、ほとんどを仕事に費やした。

そんな中でも、好きなものは自然と寄ってくる。。ような気がする。



12月は莓の第二シーズン。

バーでも自然とお目にかかる。
誰かのカクテルが目につけば、莓単品で頼みたくなる。


夜、疲れていたら、莓はすこし甘酸っぱい。





休日出勤の日に、ふと顔を上げるとお昼時。気にせず仕事して、気がつけば夕暮れ前。

コートなしで散歩に出かけると、予想外に寒い外。

あわてて紅茶屋さんに駆けこんで、熱いミルクティ。
莓ジャムができているので、スコーンを二個頼む。
やたらと甘い昼の莓。


ほんのひとときの嵐からの避難場所みたいな。