8.02.2011

放射能パニック

今、日本では放射能パニックが起きている。
ずっとそこにあったものなのに、急遽脚光を浴びて皆の前に華々しく現れ、そこら中の頭の中を掻き乱しているようだ。

不安や経済、アイデンティティや歴史。

人間が火を使う歴史と似ているのか、それとも今回は根本的に違うものなのか。

多くの人はきっと、原発というものに対して支持も不支持も抱いていないだろう。
本当のところは。
原発事故反対というスタンスしか取りようがないとも言える。

その汚染物質はどこまで広がるのか。どんな影響があり、いつ無害になるのか。それに対する手だてはあるのか。

誰もシンプルな答えを持っていない。

よく分からない、というのが真実で、専門家に言わせても、せいぜい「まだよく分からない(こういうことまでは分かっている)」というところが誠実なラインだろう。それ以上は大抵の場合、必要とされなかったのだから。
ただしパニックの間は、大量の仮説や偏ったデータが、確固たる事実であるかのように伝えられる。


煽るメディアに煽られるひとびと
隠す体制に、糾弾するひとびと
ニワトリとタマゴみたいだ
どちらが原因でも成り立つ関係。


パニックはそれぞれの立場の間に働く引力で二重螺旋を描きながら、不安を拡散していく。原動力は事故への怒りだろう。
このパニックの果てに起こることはなんだろう。他のパニックと同様、いずれは過去へと消え去っていくだけだろうか。
それとも、文化的なトラウマとなり、ずっと影響を与え続ける、大きな爪痕を残すことになるだろうか。


いずれにせよ、世界で増え続ける人口に対して、われわれはまだエネルギー問題を解決していない。いま起きている放射能に汚染された/されてない問題よりはるかに深刻だ。化石燃料にせよ、原子力にせよ、太陽光にせよ、地球のエネルギーは足りていない。水も食料も同様だ。
これは日本も含めて多くの人々の生存に直結する、差し迫った問題だ。


そんな中、いま日本で起きている近視眼的な放射能パニックは、もっと大きな今後の問題を見るひとつのきっかけとなるだろうか。
子供に食べさせるものが汚染されているか心配であるなら、子供が大人になったときにいまと同じだけのエネルギーが供給されているかも同時に心配なはずだ。


放射能パニックはまるでバブルのようだ。狂気的で、大して意味のないものが重要に思えたりする。一方で、新しい価値観が生まれて、世の中を大きく変えたりする。


このパニックが掻き乱し、人々の記憶に刻み込んだ不安の数々が、われわれの考える力を刺激し続けていくだろう。
放射能パニックはいま、日本に新しい視点をもたらしている最中なのだ。